かつては、多くの寺院のあるところに仏壇店が集中していました。いまでは全国でも仏壇店が集中している通りは少なくなっています。そのなかでも、今も仏壇店が集中している「通り」があるので、仏壇店を探す時の参考にしてみてください。
●東京/浅草仏壇通り
JR上野駅から浅草へとつづく浅草通りは、別名「仏壇通り」といわれます。現在、日本で一番大きな仏壇通りです。上野駅から行くこともできますが、より便利な駅は東京メトロ銀座線「田原町駅」です。田原町駅から地上に出ると、通りの南側に50軒の仏壇・仏具店が上野まで軒を連ねていて、仏壇、仏具、位牌、数珠、線香、仏像、寺院仏具、盆提灯、神棚など、宗教用具のことなら何でも揃う専門店街となっています。
江戸時代、徳川家康が上野の山に、「東の比叡山」ともいうべき東叡山寛永寺を建立したことから、上野は信仰の地となりました。さらに明暦3年(1657年)の江戸大火の後、幕府が多くの寺院をこの周辺に集めたので、寺町と呼ばれるようになったのです。寺院数は300を超えます。
また、雷門で有名な浅草寺は、隅田川で漁師の網にかかった観音像をまつったことから「浅草の観音様」の名で親しまれ、庶民の信仰を集めるようになったのです。多くの寺院が集まるにつれ、仏壇・仏具の職人も集まるようになり、浅草仏壇通りが徐々につくられ、現在の「仏壇通り」になりました。
仏壇通りにある仏壇・仏具店は南側に集中しています。直射日光が当って商品が傷むのを避けるために、すべて南側に並んでいるのです。
浅草仏壇通りは、正式には、上野・浅草通り神仏具専門店会といいます。仏壇・仏具店50店舗もの店が集まっているのは、全国でもこの浅草通りだけです。しかも、墓石とか葬儀を扱う兼業店ではなく、どの店も仏壇・仏具の専門店で、日本一の品揃えといえるでしょう。 それだけに専門性が高く、店員は豊富な仏事の知識を持っていますので、安心して相談していただけると思います。
●名古屋の仏壇通り
名古屋市にある大須観音の南に門前町通りがあります。西本願寺名古屋別院、東本願寺名古屋別院に向う商店街で、20軒ほどの仏壇店がずらりと並ぶ「仏壇通り」です。
名古屋は世帯数に占める仏壇普及率が全国平均の40%を10%も上回っています。その7割が真宗大谷派の仏壇なので、展示してある仏壇は金仏壇が多いです。
名古屋仏壇の歴史は元禄時代にさかのぼります。当時の近隣地域には木曽桧が豊富にあったので、宮大工などの職人たちが仏壇をつくりはじめたといわれています。その後、尾張藩が仏壇作りを保護したため、中区門前町や橘町周辺に仏壇職人が集まり、名古屋仏壇の産地となったのです。
●京都の仏壇通り
平安朝以来、1000年以上も都として栄えた京都。市内にはおよそ1600の寺院があります。寺院のなかでも東本願寺、西本願寺といった多くの本山が存在しているので、京都全体が一つの門前町のようになっています。特に、東本願寺や西本願寺の門前通り、七条通りには、数多くの仏壇店が集まっています。
古都であるゆえ、数々の伝統産業が生まれています。そのなかで、京都を中心に製作される仏壇・仏具は京仏壇・京仏具と呼ばれ、最高級仏壇として、いまも受け継がれています。
各宗派の本山が集中する京都だけに、各宗派に深い造詣を持つ作り手たちが多く存在し、各宗派の方式にかなった仏壇・仏具をつくっています。それは各宗派の総本山の本堂の様式を忠実に再現小型化した精緻な工芸品として「京もの」と呼ばれ、格調の高さと精神性を誇っています。
●広島の仏壇通り
広島の中心街、胡町の三越デパートのすぐ裏に「仏壇通り」があります。まわりは流川、薬研堀という飲み屋さんが集中しているところで、何でこんな所に仏壇店がと思われるかもしれませんが、この辺はもともと仏壇職人が多く住み、仏壇店が多かったため、仏壇通りと呼ばれていたのです。いまも仏壇店が何軒もありますが、飲み屋さんがあとから増えてきたのです。
広島では13世紀以来、浄土真宗が盛んに信仰されてきた地域です。宗徒の信仰は強く「安芸門徒」と呼ばれていました。熱烈な門徒信仰の拠り所として仏壇がつくられ、広島仏壇の産地となったのです。16世紀には、安芸門徒は菩提寺を守るために、地元の毛利氏とともに織田信長と戦いました。
江戸時代になると、紀州の浅野氏が藩主として広島にやってきました。藩主とともにやってきた職人のなかに、塗師や、金箔押師などがいたことから、広島仏壇の製造に高度な技が導入されて発展しました。さらにその後、京都や大阪で仏壇仏具づくりを学んだ僧侶が技術を持ち帰ったことで、広島仏壇の製造技術が確立されたのです。
広島仏壇の産地として発展するとともに、広島には卸もする仏壇メーカーが集中しています。