はじめに
かつて、うつ病などのメンタル疾患は周囲から理解されにくい病気でした。精神科も敷居の高い診療科で、こころの不調を感じる本人もその家族も、精神疾患への偏見から受診を遅らせてしまうケースが多かった時代もあります。
近年「うつ病はこころの風邪」という表現が広まり、うつ病が「風邪のように誰もがかかりうる病気」であることが理解されたため、精神科は以前より身近な診療科となりました。
ただし、うつ病は風邪にたとえられるほど軽いものではなく、自殺の危険性が高い病気であることを心にとめておかなくてはいけません。
うつ病は老若男女、誰もがかかる可能性のある病気ですが、高齢者のうつでは若い人と異なる特徴があったり他の病気と間違いやすい症状を呈したりすることがあります。
この記事では、高齢者のうつに特化して解説をすることにします。
老人性うつとは
「老人性うつ」は正式な病名ではありません。カルテ上は若い人も高齢者も「うつ病」という共通の病名になります。ただ、65歳以上の高齢者にうつ病が発症した場合、若い世代とは異なる特徴がみられるため、「老人性うつ」と呼んでいます。
1.老人性うつの症状
まず、うつ病の典型的な症状は以下のとおりで、この中で①または②を含む5つ以上の症状が2週間以上続いている場合にうつ病と診断されます。
- ①抑うつ気分
気持ちが沈みこんだり憂うつになったりする
悲しくなったり落ち込んだりしてわけもなく涙が出る
- ②興味や喜びの喪失
仕事や趣味など普段楽しんでいたことに興味がなくなる
世の中のできごとに無関心になる
- ③食欲減退もしくは亢進
何を食べても味がせず食欲が落ちて体重が減少する
甘いものなど特定のものを過食して体重が増加する
- ④睡眠障害
寝つきが悪い入眠障害
夜中に目が覚める中途覚醒
朝早く目が覚める早朝覚醒
過眠
- ⑤精神運動障害
話し方や動作が普段より緩慢になる
焦燥感が強くなりじっとしていられなくなる
- ⑥易疲労性
いつもより疲れやすい
気力がなくなり何をするのもおっくうになる
- ⑦自責の念
自分は価値のない人間だと思う
悪いことをしたと罪悪感を抱く
- ⑧思考力と集中力の低下
思考力が落ちて物事を決断できない
物事に集中できない
- ⑨希死念慮
死について何度も考える
具体的な死の方法を考えて実行に移そうとする
高齢者でのうつでは上記の典型的なうつ病の症状を呈する人は3分の1ほどで、むしろ身体的不調である頭痛、胃痛、下痢や便秘、息苦しさ、めまい、しびれ、肩こりなどを訴えることが多いといわれます。
このように、うつが身体症状に隠れた状態を「仮面うつ病」と呼びます。身体症状が前面に出ると、まず内科などを受診するのが普通です。検査をしても異常がみられず、最終的に精神科でうつ病と診断されるケースがよくあります。
若い人でもうつ病で身体症状が出現しますが、高齢者では特に多くみられますので、周囲の人は身体症状の訴えが長く続く場合、一度うつ病を疑ってみることが必要です。
また、高齢者のうつによくみられる症状に「妄想」があります。自分は不治の病にかかってしまったと思い込む「心気妄想」、重大な罪をおかしてしまったと思い込む「罪業妄想」、お金がなくなったと思い込む「貧困妄想」が代表的です。
2.老人性うつの原因
うつ病が発症するメカニズムはまだ明らかになっていません。何らかの理由で脳の神経伝達物質であるモノアミン(セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン)が不足することがうつ病発症の一因です。しかし、それだけが原因ではなく、環境変化によるストレスや生真面目で完璧主義などの気質(性格)が複雑に絡み合って発症するものと考えられています。
老人性うつの誘因として特徴的なものには「重大なライフイベント」と「慢性的なストレス」があります。
高齢になると、大切な人との死別を経験することが多くなります。また定年退職後は社会的役割を失ったり収入減による経済的問題が起こったり、社会から孤立しがちです。さらに身体能力の低下や健康不安も加わるため、高齢者はいくつもの「喪失体験」をすることになります。これらは老人性うつの誘発因子となりますので、大きなライフイベントの前後には注意が必要です。
老人性うつと認知症の違い
老人性うつは認知症と似た症状を呈することがあります。また、うつ病と認知症の合併や認知症の前駆症状としてのうつ状態の可能性もあります。うつ病も認知症も早期発見、早期治療が重要なことは共通ですので、周囲は両者の違いを理解したうえで早期に対応できるようにします。
1.本人の自覚の有無
老人性うつも認知症も、認知機能が低下します。老人性うつでは認知機低下を自覚して悲観的になりますが、認知症ではあまり自覚がなく、症状の進行とともに物忘れなどの自分自身の状態に無関心になります。
2.自責の念の有無
老人性うつでは「自分は価値のない人間だ」「周囲の人に迷惑をかけている」「生きている価値がない」などの自責の念があり、それが自殺企図につながることがあります。一方、認知症ではしだいに問題行動が増えても自責の念は感じないのが普通です。
3.記憶障害(物忘れ)の有無
老人性うつにも認知症にも記憶障害がみられます。認知症の記憶障害は軽度なものから始まり、しだいに重症化します。認知症では忘れたこと自体を忘れるため、自分の記憶障害が大きなストレスにはなりません。うつ病では突発的に記憶が欠落することがあり、本人にとってはストレスになり、不安や焦燥を感じることになります。
4.症状の進行速度
老人性うつと認知症の進行速度には違いがあり、認知症は数カ月単位で徐々に進行してゆく一方で、うつは比較的短期間で症状が悪化します。
5.質問に対する受け答えの違い
老人性うつも認知症も理解力や判断力が低下しますが、認知症では質問に対して的外れな返答をすることが多く、うつ病では考えがまとまらないために答えられず「わからない」と返答することが多くなります。
老人性うつの予防法
老人性うつは、かかりやすい環境や誘因がある程度わかっていますので、それらを意識することが予防につながります。
運動や散歩を日課に
精神の安定や感情コントロールにかかわる神経伝達物質のセロトニンは、運動や日光を浴びることで合成が促進されます。セロトニン不足はうつ病の一因ですので、適度な運動や日光浴を日課にしましょう。
社会から孤立しない
定年退職後は人とのかかわり合いが減り、孤立しがちです。可能な範囲での再就職、ボランティアワーク、サークル活動や習い事などで社会との接点を保つようにしましょう。
バランスのよい食事
炭水化物、脂質、たんぱく質、ビタミン、ミネラルの5大栄養素を過不足なくとれる食事をこころがけるようにします。適切な食生活で体を健康に保つことが、メンタル面の安定につながります。
飲酒習慣に注意
習慣的に飲酒する人はうつ病になりやすく、アルコール依存症とうつ病は「ふたごの病」といわれるほど深い関係にあります。アルコールは抑うつ気分を引き起こす原因物質ですので、飲酒量や飲む頻度に気をつけましょう。
老人性うつの治療法
1.環境調整
治療にあたり、じゅうぶんな休養がとれるような環境を整えることが重要です。うつ病の症状に「自責の念」があり、なにもせずにただ休んでいることに罪悪感を抱くことがありますので、周囲は治療のために休んでもらえる工夫をしましょう。自宅ではじゅうぶんな休養がとれない、または自殺企図がみられる場合には入院治療も視野に入れます。
周囲の人が「がんばれ」と叱咤激励したり、気分転換を勧めたりしてはいけないことは広く知られるようになりました。うつ病患者にとって必要なのは、共感や傾聴の姿勢であることを家族など身近な人は忘れないようにしましょう。
2.薬物療法
抗うつ薬
うつ病の治療において中心となるのが抗うつ薬の服用です。古くからうつ病の治療に使われてきた三環系抗うつ薬や四環系抗うつ薬は副作用が強く、高齢者にはやや服用しにくい薬でした。
近年、副作用の少ないSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)、SNRI(セロトニン・ノリアドレナリン再取り込み阻害薬)、NaSSA(ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ薬)という3つのタイプの新規抗うつ薬が主流となっています。
飲み始めの副作用に、吐き気、おう吐、下痢などの消化器系症状がありますが、通常2週間程度で治まってきます。副作用が強くつらい場合には副作用止めの薬が処方されることがありますので、主治医に相談してみましょう。
睡眠薬
うつ病で多くみられる睡眠障害には、睡眠薬が処方されることがあります。老人性うつの場合、ふらつきや転倒の恐れがあるためベンゾジアゼピン系睡眠薬は避けるのが望ましく、非ベンゾジアゼピン系睡眠薬や、メラトニン受容体作動薬とオレキシン受容体拮抗薬という新しいタイプの睡眠薬が使われることが多くなりました。
抗不安薬
いわゆる精神安定剤で、不安感や焦燥感が強い老人性うつに処方されます。
<薬物療法の注意ポイント>
規則正しい服薬
抗うつ薬は薬の血中濃度を一定に保つために、飲み忘れのないよう決められた時間に服用します。症状のあるときにだけ飲むのではなく、規則正しく服用する必要があります。
指示通りの服薬
抗うつ薬は少量から始めて、副作用の有無などをみながら徐々に増量するのが一般的です。薬が増えても自己判断で減らしたりせず指示量を守りましょう。
焦らず服薬
抗うつ薬には遅効性という特徴があり、効き始めるまで2週間から1ケ月ほどかかります。本来の作用よりも副作用が先に出現することがあるため、薬を飲んでかえって具合が悪くなったと服薬を中断してしまう人がいますが、抗うつ薬の特性を理解し焦らずに服薬を続けましょう。
自己判断により断薬しない
抗うつ薬は長期間服用する薬です。症状がなくなってからも、再発防止のため量を漸減しながら飲み続けることがあります。自己判断で薬をやめるのは危険ですので、主治医の指示に従いましょう。
薬の飲み合わせに注意
高齢者には持病を抱える人も多く、すでに他の薬を服用中の人もいるでしょう。薬には飲み合わせといって、同時に飲んではいけないものがありますので、受診の際には「おくすり手帳」を忘れずに持参します。
3.精神療法
うつ病の引き金となったストレスの対処法を学ぶのが精神療法です。「認知行動療法」や「対人関係療法」がよく知られています。ただし、治療の初期段階では休養や服薬を優先するべきで、精神療法は回復期や寛解期に再発防止のために行うのがよいでしょう。
まとめ
老人性うつでは認知症と似た症状がみられたり、身体症状の訴えが多かったりして、うつ病であることに気づくのが遅れることがあります。また、シニア世代の人にはこころの不調を「気の持ちよう」や「本人の心がけ次第」などと考えて、精神科の受診をためらう人がみられます。
しかし、うつ病も早期発見・早期治療が重要です。回復には発症から受診までの期間と同じ期間がかかりますので、発症してすぐに治療につながるほど短期間で症状が改善します。老人性うつが疑われる場合には、迷わず精神科を受診するようにしましょう。